ミニマリスト老子

老子4章:謙虚な人のほうが愛される。

老子4章 謙虚 亀

ワンルーム暮らしミニマリストブロガーのまさすみです。

前回は第3章を紹介しました。↓
https://otukisama.com/laozi-3

今回は、第4章。
この章でも「道(タオ)」の説明がされています。
同時にタオの性質を通して、人のあり方、「謙虚」に生きることの大切さを教えてくれます。

それでは、ご覧ください。

老子 第4章の原文

道冲而用之或不盈。
淵乎似萬物之宗。
挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。
湛兮似或存。
吾不知誰之子。象帝之先。

4章の訳・私の解釈

タオは無限に入る甕(かめ)のようなもので、空っぽになることも、一杯になることもない。
すべてのものが湧き出る、深い泉のようだ。

タオは、とがったものを丸め、もつれているものをほぐし、強い光を和らげ、ザワザワした中でも同じように振る舞う。
まるで水を静かに深くたたえたかのように存在しているのだろう。

私はタオが何から生まれたか知らないが、宇宙(神)よりも前から存在している。

解説・私の思うこと

「道冲而用之或不盈。淵乎似萬物之宗。」
「淵乎似萬物之宗。」

訳:タオは無限に入る甕(かめ)のようなもので、空っぽになることも、一杯になることもない。
すべてのものが湧き出る、深い泉のようだ。

今までの章でも説明されてきたようにタオは概念を超えていて、この章では、老子はタオのことを「空っぽの器」と表現しています。

老子の言う「空っぽ」は「無=全くない」という意味ではなく、目に見えない、すべての物事や可能性のエネルギーが含まれている状態のことです。

ですから、「空っぽの器」は、幾らでもモノが入るだけでなく、幾らでも出てくるとも言えます。

ある意味、人間の心も同じで、私たちの心には「どこまでが自分の意識」と線が引けません。
自分の心があるのは間違いないのですが、心を形で表現することもできません。

私たちの雑念も含めて、アイデアは幾らでも湧き出てきます。
ただ、それがどこから生まれてくるのかは分かりません。

この章のあとの部分を読むと、老子は「タオと人の心は同じようなものだ」と言っているように思います。

「挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。」

訳:タオは、とがったものを丸め、もつれているものをほぐし、強い光を和らげ、ザワザワした中でも同じように振る舞う。

私はこの4句を初めて見た時、「すべてのものが分解され、光も弱められ、すべてが塵のようになる。」というニュアンスでブラックホールをイメージしましたが違ったようです。

「和光同塵(わこうどうじん)」という有名な言葉がありますが、この句からできたとされています。
仏教では、「優れた才能を隠し、俗世間と交わる」と説明されます。

原文の4句を人間に照らし合わせて、さらに意訳すると次のようになります。

↓↓↓
攻撃的な面を丸め、対立をやめて、ギラギラした面を和らげ、心がザワザワしてもいつも通りに振る舞う。
↑↑↑

考えてみれば、確かに次のような人は嫌われたり、煙たがられます。↓
強すぎる自己主張。才能や能力をひけらかす。偉ぶる。自分は他の人より優れていると振る舞う。

老子は、そういったことをやめて、「謙虚」でいることが大事だと言っているのですね。

「湛兮似或存。」

訳:まるで水を静かに深くたたえたかのように存在しているのだろう。

水には、角を丸める力、解きほぐす力があります。
水の中では強い光は和らげられ、チリも静かに底に沈められます。

タオは、たっぷりと湛えた水と同じようだ、ということですね。

「吾不知誰之子。象帝之先。」

訳:私はタオが何から生まれたか知らないが、宇宙(神)より前から存在している。

1章の説明にも出てきた、タオは何から生まれたのか?という問いです。

例えば、地球が存在するには、その前に宇宙が必要です。
では、宇宙が存在するには、その器になる何かが必要です。
これは無限に続きます。

タオはビッグバンよりも前に存在しているということを老子は感覚的に表現しているのですね。

また、私はもう一つの解釈があるような気がしています。
もしかしたら、老子は、「私はタオが何から生まれたか知らないが、宇宙(神)より前に存在している」ではなく、「私は何から生まれたか知らないが、宇宙(神)より前に存在している」と言いたかったのでは?

その視点で私なりに拡大解釈をすると、老子がもし、タオと人の心との類似点を語っているとすれば、インドの聖者と言われている人たちが昔から語っている究極の問いと同じになります。

それは、「私とは何か?」という問いです。
インドの哲学者たちは大昔から、これを問いかけます。
※詳しく知りたい方は、「ラマナ・マハルシ」や「ニサルガダッタ・マハラジ」で検索してみてください。

その中で出てくるのが、私という存在に対して確実に言えることは、「私はある。」ということだけだといいます。

究極に突き詰めていくと、真実は「私はある。」だけで、それ以外の思考や感覚はすべて幻ということです。
自分で思考実験をしてみると、確かに途中から言葉で説明できない領域になります。

次の問いは、この「私(心)」はいつ生まれたか?です。
「心は生まれもしないし、死にもしない。ただ、いつからか存在していた」ということだそうです。

これは、老子の言うタオと同じで、心は宇宙(人によっては神)よりも前に存在していた、とされます。

かなりスピリチュアルになってしまってすみません。。

あとがき

いかがでしょうか?

4章の難しいところは、いくつかの句が前後の句と文脈が繋がっていないように感じるところです。

私個人としては、前述のとおり拡大解釈をして、老子は4章で、タオと人の心をテーマに語っているのではないかと考えます。

タオには形や制限がない。人の心も形や制限がない。
タオから無限に物事が生まれる。人の心からも無限にアイデア・創造が生まれる。
タオは宇宙よりも前にあった。人の心も宇宙よりも前にあった。

「ほら、タオと人の心は同じでしょ。だから、タオと同じように人も謙虚でいるほうがいいよ」と老子が教えてくれているような気がしませんか?

謙虚な人のほうが結果的に愛される、というのは、老子の言う「無為」にも通じますね。

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