ワンルーム暮らしミニマリストブロガーのまさすみです。
前回は老子第20章を紹介しました。↓
https://otukisama.com/laozi-20
今回は、第21章。
老子は今までタオは概念を超えた表現のできないモノだと説明しています。
しかし、自然や自分自身をよく観察してみれば、確かにその力が働いていることが分かると言います。
それでは、ご覧ください。
老子 第21章の原文
孔徳之容、唯道是從。
道之爲物、唯怳唯忽。
忽兮怳兮、其中有象。
怳兮忽兮、其中有物。
窈兮冥兮、其中有精。
其精甚眞、其中有信。
自古及今、其名不去。以閲衆甫。
吾何以知衆甫之然哉。以此。
21章の訳・私の解釈
徳のある人はタオに従って生きている。
タオはおぼろげでぼんやりとしたモノ。
おぼろげなその中に形造られる何かがある。
ぼんやりとしたその中に実体が生まれる。
深遠なその中に精気を宿している。
精気はとめどなく溢れ、その中に確かに存在する。
太古から現在まで存在し続けている。ゆえに万物の始まりを見てとれる。
私がなぜ万物の始まりを知っているのかと言えば、
今まさにその流れを見ているからである。
解説・私の思うこと
「孔徳之容、唯道是從。
道之爲物、唯怳唯忽。」
訳:徳のある人はタオに従って生きている。
タオはおぼろげでぼんやりとしたモノ。
タオは言葉では表現できないものであることは以前の章でも何度も出てきました。
しかし、私たちが実体として見ている物や現象、自分自身さえもそのタオの働きによるものであることを老子は説明しようとしています。
「忽兮怳兮、其中有象。
怳兮忽兮、其中有物。
窈兮冥兮、其中有精。
其精甚眞、其中有信。」
訳:おぼろげなその中に形造られる何かがある。
ぼんやりとしたその中に実体が生まれる。
深遠なその中に精気を宿している。
精気はとめどなく溢れ、その中に確かに存在する。
タオはもやもやしたエネルギーの詰まった空間、存在のように私はイメージしています。
空(くう)や無のような概念ですね。
そのおぼろげでぼんやりした中から万物が生み出される。
物が存在するということは、それが存在できるスペースがなくては成り立たない。
これを辿っていくと無限に続き、言葉や概念を超えます。
それが老子が「恍惚=おぼろげ、ぼんやり」と表現するタオの一側面になります。
老子が言いたいのは、
タオや精妙なエネルギーを理解することはできなくても存在は間違いなくある。
自分も含めて今、目の前にあるすべての物が存在していることがその証拠だよ。という感じでしょうか。
「自古及今、其名不去。以閲衆甫。
吾何以知衆甫之然哉。以此。」
訳:太古から現在まで存在し続けている。ゆえに万物の始まりを見てとれる。
私がなぜ万物の始まりを知っているのかと言えば、
今まさにその流れを見ているからである。
植物の種を例に見てみましょう。
植物の種から芽が出て、生長し、やがて花を付け、実をつける。
そしてまた種が生まれます。
ひとつの植物の始まりから終わりを見ることができ、再び始まる。
私たちは当たり前のように教わり、実際に見て、普通に感じていますが、なんと不思議なことなのでしょう。
そのシステム、サイクルを持続させる驚異的な力があるのは間違いありません。
これは老子の言うタオの働きの一部であり、これは生物だけでなく全てのモノやコトにも働いています。
今この瞬間にもすべてにその力が働いていて流れているのを見ることができるのだから、存在するのは確かでしょ。と老子が言っているように感じます。
あとがき
自然や自分自身をよく観察してみる。
そうすると脈々と続いてきたタオの流れを感じることができるようです。
自分が存在するのは数え切れない自分の祖先や生物がいて、そのすべてが途切れずに続いてきたから。
運がいい。結果論。という言葉で片づけることもできますが、すごい事ですよね。