ミニマリスト老子

老子16章:心をただ静かにすれば、悩みや怒りはやがて消えていく

老子16章

ワンルーム暮らしミニマリストブロガーのまさすみです。

前回は老子第15章を紹介しました。↓
https://otukisama.com/laozi-15

今回は、第16章。

この章では生きとし生けるものは命を繰り返していると老子が言っています。
そして、さらに深い話として私たちの意識の話をしています。

私たちが世界の中に存在しているのか、
それとも私たちの意識の中に世界が存在しているのか。
哲学ですね。

その不変の法則を理解できれば心豊かに生きていけるようです。

それでは、ご覧ください。

老子 第16章の原文

致虚極、守靜篤。
萬物並作、吾以觀復。
夫物芸芸、各復歸其根。
歸根曰靜、是謂復命。
復命曰常、知常曰明。
不知常、妄作凶。知常容。
容乃公。公乃王。王乃天。天乃道。道乃久。沒身不殆。

16章の訳・私の解釈

心を完全に空っぽにすると、どこまでも静けさが続く。
その静けさの中に様々なことが次々と浮かんでは消えていく循環が見て取れる。

生きとし生けるものは生まれてきては根源に戻っていく。
根源に戻ることを静と言い、これは命の繰り返しと言える。
命の繰り返しは不変の法則であり、これを知ることは物を見通す力である。

この法則を知らなければ、みずから災いを招く。
それを知っていれば、全てを受け入れることができる。

全てを受け入れると公人になり、公人になると王になり、王になると神になり、
神になるとタオと一体になり、タオは永遠である。
そうなれば永遠に危うくなることはない。

解説・私の思うこと

「致虚極、守靜篤。
萬物並作、吾以觀復。」

訳:心を完全に空っぽにすると、どこまでも静けさが続く。
その静けさの中に様々なことが次々と浮かんでは消えていく循環が見て取れる。

これは瞑想の話に似ています。
スピリチュアルの世界では瞑想することによって何かを得たり、何か不思議な力に繋がることを目的に瞑想を勧める人がいますがこれは違います。

瞑想は何かを得るためにするのではなく、雑念を手放して心を空っぽにするためのものです。
何かを得ようとして瞑想をしても、それでは心が空っぽ、無為とは言えません。
雑念を手放していくと、ただ静かな空間だけが残ると言います。

空っぽになった空間(心、意識)の中には、やがて色々なイメージや雑念が湧いていきます。
私たちの自我は常に動き回ろうとするので心をずっと空っぽにしておくことはできません。

自我は一見、自分の支配下にあるような気がしますが、これも実は違います。
実際、何も考えないようにしたくても何か頭に浮かんできます。
もし自分でコントロールできているのなら、空っぽにすることはできるはずです。

また、悩みや怒りもすぐに忘れて考えなければいいのにいつまでも考えてしまいますよね。
これも思考が自分の支配下に無いということの現れです。

私たちの思考は勝手に頭の中に浮かんでは、また勝手に去って行くものなのですね。

「夫物芸芸、各復歸其根。
歸根曰靜、是謂復命。
復命曰常、知常曰明。」

訳:生きとし生けるものは生まれてきては根源に戻っていく。
根源に戻ることを静と言い、これは命の繰り返しと言える。
命の繰り返しは不変の法則であり、これを知ることは物を見通す力である。

すべての物は生まれてはまた消えていくを繰り返す。
どこからか生まれてきたものは、また静寂の中に戻り、また生まれてくる。
私たちの思考を含めた世の中のすべてはこの循環に従っています。

私自身も生まれたいと思って生まれてきた覚えもありませんし、死にたいと思っていなくても、いずれ死にます。
当たり前のことですがよく考えてみると、とても不思議なことです。

すべての物も現象も始まりがあり、必ず終わること、
それらは意図もなく勝手に始まり、勝手に終わる。
この法則の本質を理解することが大切だと老子は言っています。

「不知常、妄作凶。知常容。
容乃公。公乃王。王乃天。天乃道。道乃久。沒身不殆。」

訳:この法則を知らなければ、みずから災いを招く。
それを知っていれば、全てを受け入れることができる。

全てを受け入れると公人になり、公人になると王になり、王になると神になり、
神になるとタオと一体になり、タオは永遠である。
そうなれば永遠に危うくなることはない。

すべての物事を受け入れられるようになると、その人は自分のためだけでなく、世間のために生きるようになる(公人)。
このような人たちは私たちが知っている偉人の中にもいます。
自分の財産や時間を投げ打ってでも困っている人達を助けられる凄い人たちです。

世界のすべての指導者がこういう人であれば、この世の中はもっと違うのでしょう。

この節の全体をもっと詳しく掘り進めると次のような解釈になります。

すべての物事は実は私たちの頭の中に浮かんでは消えるだけ。
例えると「私自身」とは映画の「スクリーン」であって、スクリーンに映される「映像」が私たちが自分の「思考」や「人生」だと思っている物です。

本来の自分はスクリーンそのものなのに、そこに映された映像(思考、人生)に一喜一憂しているんですね。
老子の言葉でいうと、このスクリーンが「空(くう)」です。

老子が「不知常、妄作凶」=「この法則を知らなければ、みずから災いを招く」の部分で言っているのはこのことで、映されては消えていく、ただの映像だということを理解していないと他人と比較してみたり、不足感にさいなまれるわけです。

あるがままを受け入れられるとタオと一体になる。
以前の章でも出てきたように私たちは本来のあるがままの世界にあれこれを解釈を付けて、悩んだり喜んだりしているだけ。

あるがままに受け入れる=完全に執着がなく、何が起きてもどんな状態でもオールOKということ。
これほど柔軟で心が広く、強い人間はなかなかいませんね。
こんな風にいられたら確かに死ぬまで安泰の無敵です。

あとがき

いかがでしょうか?

全体を通してかなりスピリチュアルな内容でしたね。。
ある意味、全ては幻想だ、と言っているようなものです。
人によっては受け入れられないかもしれません。

今までにも何度か書いてきましたが私が面白いなと思うのは、「すべては幻想」のようなことが最近の物理学者たちも発表していること。
ミステリーであり、ロマン。ワクワクしてしまいます(^^)

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