ミニマリスト老子

老子14章:薄明かりのぼんやりとした切なさの漂う状態

老子14章 ぼんやりした存在

ワンルーム暮らしミニマリストブロガーのまさすみです。

前回は老子第13章を紹介しました。↓
https://otukisama.com/laozi-13

今回は、第14章。

今までの章にもあったように老子が「道(タオ)」や「無の状態」について説明しています。
しかし、タオや無は言葉では説明できないと老子は言います。

抽象的な例や表現を通して、タオの法則を教えてくれます。

それでは、ご覧ください。

老子 第14章の原文

視之不見、名曰夷。
聽之不聞、名曰希。
搏之不得、名曰微。
此三者不可致詰、故混而爲一。
其上不皦、其下不昧。
繩繩不可名、復歸於無物。
是謂無状之状、無物之象。
是謂惚恍。
迎之不見其首、隨之不見其後。
執古之道、以御今之有、以知古始。
是謂道紀。

14章の訳・私の解釈

見ようとしても見えないもの、それを夷という。
聞こうとしても聞けないもの、それを希という。
手でさぐっても得られないもの、それを微という。
これらは実体を突き詰めていくことができない。
この世のすべてに混ざり合って一つになっている。

それは上にあっても明るいわけでもなく、下にあっても暗いわけでもない。
おぼろげな存在で名前も付けられず、結局は形の無いものに戻っていく。
言わば、状態の無い状態、姿かたちの無いものだ。
これを恍惚という。

前から迎えても顔は見えず、後ろから着いて行っても後ろ姿は見えない。
はるか昔から続くタオの真理が今存在しているすべてのものに浸透していて、そのことから万物の始まりを知ることができる。
これを道紀という。

解説・私の思うこと

「視之不見、名曰夷。」
「聽之不聞、名曰希。」
「搏之不得、名曰微。」
「此三者不可致詰、故混而爲一。

訳:見ようとしても見えないもの、それを夷という。
聞こうとしても聞けないもの、それを希という。
手でさぐっても得られないもの、それを微という。
これらは実体を突き詰めていくことができない。
この世のすべてに混ざり合って一つになっている

私が一番最初にこの句を見て思ったのは、なぜ、わざわざ「夷・希・微」と名前を付ける必要があるのか。

老子は五感で感知できないものの「存在」を強調しています。
あえて、見えない物に「夷」と名前を付ける事で実体のないものの存在が「有る」ということが言いたいのですね。

ただし、以前の章にもあったように、名前が付いた時点ですでに本質を表していません。
あくまで理解しやすくするために仮の名前を付けたのですね。

私たちは日頃、見えるもの、聞こえるもの、形のあるものを確かなものと思いがちです。
しかし、そうでない物もこの世の中にたくさん存在しているのも知っています。

例えば、感情や心なども形は無いですが存在しています。
心とは何かを突き詰めていっても答えはありませんが、有るのは確かです。

タオや無なども同じように存在していて、この後の句に続く前置きとして説明しているのでしょう。

また、「混ざり合って一つになっている」という部分に関しては、タオの性質を表しています。
老子は本来、分離していない世界のあり方、全体性が真実だと言います。

「其上不皦、其下不昧。」
「繩繩不可名、復歸於無物。」
「是謂無状之状、無物之象。」
「是謂惚恍。」

訳:それは上にあっても明るいわけでもなく、下にあっても暗いわけでもない。
おぼろげな存在で名前も付けられず、結局は形の無いものに戻っていく。
言わば、状態の無い状態、姿かたちの無いものだ。
これを恍惚という。

タオや無には、上下という概念はありません。

「形が無い」=「何もない」ではなく、前の句で説明されていたように「形の無い」という状態が存在している。
これは数字のゼロの概念にも近いような気がします。

少し話が逸れますが、ゼロを発見したのはインドと言われています。
ゼロが数字として使われる前には、「空白」や「うつろな」を意味するサンスクリット語のSunyaを「ゼロ」や「無」の意味として使っていたそうです。

私たちはゼロを普通に使っていますが、これも「無い」という状態に名前を付けていることになります。
面白いのは、サンスクリット語の意味も、老子が言う「無」や「おぼろげ」と一致しています。
ぼんやりとした、おぼろげな存在、物質と非物質の中間的なイメージのように私は感じます。

また、瞑想を極めた人が「無」の境地に至ると、何とも言えない幸福感が訪れると言います。
このような状態のことを「恍惚」と表現しますよね。

まるで体が無いような、そんな感覚だそうです。
まさに、恍惚=ぼんやりとしたうつろな状態です。

しかし、「あ~、なんて幸福なんだ」と意識した瞬間、無の状態ではなくなるそうです。
要するに意識している状態では本当の「恍惚」や「無」に触れることができないのです。

ということは、頭で意図して考えて「無」を理解しようとしても無理。
無心で「ただ存在している」ときにしか恍惚は体験できないのです。

ちなみに、誰もがぼんやりしたことがあると思います。
ぼ~っとしていて、ふと我に返る。あの瞬間。
自分の意識がどこかに行ってしまって、無くなっています。
あの感覚も周りと自分の境目がない状態だと言えます。

「全体性」を表現すると、確かに「ぼんやり」「おぼろげ」は適しているように思います。
物と物の境目がない状態こそ、分離していないと言えますね。

「迎之不見其首、隨之不見其後。」
「執古之道、以御今之有、以知古始。」
「是謂道紀。」

訳:前から迎えても顔は見えず、後ろから着いて行っても後ろ姿は見えない。
はるか昔から続くタオの真理が今存在しているすべてのものに浸透していて、そのことから万物の始まりを知ることができる。
これを道紀という。

タオには前後という概念もありません。

自分も含めて、今すべてのモノがここに存在しているのは、はるか昔から流れが続いているからです。
その始まりを突き止めることはできません。

説明もできない、おぼろげで、うつろ、そんな見えない力?働き?存在?がタオであり、そのおかげで物や事象も生まれます。
万物が存在していること自体がタオの法則を知ることに繋がるということですね。

あとがき

いかがでしょうか?

この章は言わんとしていることは比較的わかりやすいのですが、言葉にするのがとても難しい。
老子がそもそも言葉では表せないと言っている意味がよく分かります。

タオを説明するときに「無」という存在が欠かせません。
「ゼロ」「空白」「空間」なども形はありませんが、私たちは普段から何の疑問も感じることなく使っています。
老子にとってみれば、タオや無も同じように身近で、ごく当たり前の存在なのでしょう。

また、目に見える見えないにかかわらず、存在とはボヤっとした不確かな状態なのですね。
これはまさに量子力学の世界。
2,500年前に生きていた老子が量子力学で明らかになったことと同じことを言っているのは驚きです。

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