ミニマリスト老子

老子1章:本当のミニマリストは自分をミニマリストと言わない

老子第1章

ワンルーム暮らしミニマリストブロガーのまさすみです。

前回、老子やタオについて簡単に説明しました↓
その中で、老子(タオイズム)は、ミニマリズムの原点と書きました。
https://otukisama.com/laozi-0/

今回の記事のタイトル「本物のミニマリストは自分をミニマリストと言わない」は老子第1章を見ると、意味の分かる人には分かると思います。

前回の補足。
老子道徳経は一般庶民のために書かれたものではなく、当時の君主や組織の管理者に向けて書かれたと言われています。
確かに「国を安定して治めるには~~」という内容の章もあります。

しかし、私は違う見方をしています。
結果的に君主に指南しているように見えますが、老子はもっと高い目線から見ていて、その目線は、神とか、宇宙とか、自然など、人によって様々な呼び方があります。
呼び方は、その人の個人の解釈や信条なので何でも良いです。

老子は、世の中の法則、自然の法則として、人としての自然な生き方を伝えていると感じます。

今回は、老子(老子道徳経)全81章の最初の章です。

第1章は、「道(タオ)」についての話です。
全81章の中でも、一番抽象的で理解しづらいのが第1章だと言われています。

宇宙的で、スピリチュアルな雰囲気もあり、仏教で言うところの「色即是空」にも通ずる内容です。

最新の物理学も空間や時間の「概念」の研究が盛んで、いつか同じ所にたどり着くと思います。
私たちが普段、認識しているこの世界は見方を変えると、そこには違う側面があるということを教えてくれます。

それでは、ご覧ください。

老子 第1章の原文

道可道、非常道。名可名、非常名。
無名天地之始、有名萬物之母。
故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。
此兩者同出而異名。同謂之玄。
玄之又玄、衆妙之門。

訳・私の解釈

道(タオ)を説明しようとした時点で、それは本当の道(タオ)ではない。
名前がついた時点で、それは本質を表していない。

名前のないものから、天地(世界)は生まれて、
名前が付くことで、全ての物が生まれた。

だから、無心で、あるがままに見ると、タオの深遠な働きが見え、
見ようとして見ると、物事の境目(表面的)が見える。

この両者の見え方は違うが、同じ根源から造られた。
それを「玄(げん)」と呼ぶとしよう。

その玄は、またその元となる玄から生まれる。
これがこの世のすべてのものが生まれる仕組みだ。

解説・私の思うこと

老子研究者の翻訳や解釈のニュアンスは、それぞれ微妙に違うことがあります。
私はあまり気にしていません。
章全体を眺めてみると、結果として同じことを言っている場合が多いです。

さて、第1章は老子がこれから全81章を語る準備として、道(タオ)の説明をしています。

「道可道、非常道。名可名、非常名。」

訳:道(タオ)を説明しようとした時点で、それは本当の道(タオ)ではない。
  名前がついた時点で、それは本質を表していない。

老子はタオの説明をするにあたり、それと同時にタオは定義できないと言っています。
「タオは言葉で説明できるものではない」ということ。

ようするに、
タオは概念を超えた、すべての物事・事象の根源的な「何か」としか説明できないんですね。
何かずるいですが、私は結構、しっくりきます。

ちなみに「名前」は、人や国によっても変わるので絶対的ではなく、相対的です。
逆に、タオは名前や言葉で説明できない絶対的な「何か」ということになります。

「無名天地之始、有名萬物之母。」

訳:名前のないものから、天地(世界)は生まれて、
  名前が付くことで、全ての物が生まれた。

これは、仏教の「色即是空 空即是色」に似ています。
「色のついたもの(=目に見えるもの、物質、現象)も、空(=形のないもの)も、姿の変化を繰り返しているだけ。」ということ。

なんだかつかみどころがないですね。
形のあるものは、壊れて消えてなくなる=空に戻る。
空(くう)から、また形のあるものが生まれる。

「空」は、ただ空っぽという意味よりは、「エネルギー」や「可能性」が詰まっている状態と捉えたほうが分かりやすいです。

季節は常に繰り返して、植物が生まれたり、枯れたりを繰り返します。
植物だけでなく、動物も物体もすべて変化をし続けます。

人間だって、今と1秒前の自分でさえ、常に変化しています。
これがこの世の法則ですね。

意図もなく、宇宙も含めた自然をただただ動かしている不思議な力(エネルギー、仕組み)も老子はタオに由来していると言います。

そして、私たちが物質や現象と呼ぶものには、すべて名前があります。
だから、「色即是空 空即是色」の「色」を「名前」に置き換えても意味が通ります。

名前の付いたものは、壊れたり、生まれたりして、姿が変化する。

「故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。」

訳:だから、無心で、あるがままに見ると、タオの深遠な働きが見え、
見ようとして見ると、物事の境目(表面的)が見える。

では、先ほどの「名前」や「形」のある世界を、別の視点で見てみましょう。

私たちの認識している世界には、すべての物に名前があります。
もし、これら全てに名前がなかったとしたら、何が起こるのか。

名前が付くということは、そのものが、それ以外のものと分離されるということ。
今、自分も含めて、自分の目の前にある全ての物に名前がなかったとしたら、どうでしょう。

区別することができず、全ては「ただ存在する」という状態になります。

私と世界との境目もない。
私と世界の境界線になっている皮膚は、私のものなのか。
それとも、世界のものなのか。

これは、哲学ですね。。

同じ例として、下の太極図。↓
太極図

勾玉が合わさったような形で、それぞれ陽と陰を表していますが、境目はどちらのものなのでしょう。

私たちは忘れてしまっていますが、全員がこれを体験したことがあります。
それは、生まれたばかりの赤ちゃんのとき。

赤ちゃんは、この世に生まれた瞬間、世界との分離の感覚がないと言えます。
存在自体は間違いなくありますが、まだ自分を自分とも認識していません。

すべてのものに対して、まだ名前という概念がありません。
色々なものが動いているけど、境界線の無い一枚の絵のように見えています。

「全てがひとつ」の状態ですね。
スピリチュアルに詳しい人たちは、この状態のことをワンネスとも言います。

「だから、どうした」と言われたら、それまでですが、まさに「それだけのこと」なのです。
本当はシンプルなのに、意味を求めたがるのが人のサガですね。

「一体感」は大人になってからでも、誰もが感じることもできます。

例えば、素晴らしい景色を見ているとき。
人によっては涙を流すような景色。
その瞬間、私たちは過去や未来のことを忘れて、ただ「それ」を味わいます。

これも一体になるということ。
「私」という意識がストップし、景色(自然)と自分の境目を瞬間的に忘れます。

素晴らしい音楽を聴いているときも同じです。
目を閉じて音に集中すると、まるで音と自分が一体になるように感じます。

しかし、景色も音楽も一体感が切れ、字のごとく、ふと我に返ると、また「私」の意識が働き始めます。
なので、一体になっている瞬間を意識的に感じるということはできません。
対象が対象を見ることはできないからです。

これも言葉にできない「何か」。
日々の生活の様々なことから、世界との一体感=世界と自分の境界が消える感覚は、たまに感じることができますので、没頭の状態から我に返った瞬間。
その直前の「私」という感覚がどうなっていたのかを、ぜひ感じてみてください。

「此兩者同出而異名。同謂之玄。」

訳:この両者の見え方は違うが、同じ根源から造られた。
その源を「玄(げん)」と呼ぶとしよう。

この「両者」には、下記のような表現も当てはまると思います。

「見えるもの」と「見えない物」
「有」と「無」
「全体」と「一部」
「絶対的」と「相対的」

そもそも、上記の反する二つは、人が理解するために概念上で分かれているだけで、本来は境目はないですよね。
ようするに、二元と非二元は見え方が違うけど、元々は同じ何か(玄)から生まれたということですね。

では、「玄」とは何なのか?

「玄之又玄、衆妙之門。」

訳:玄は、またその元となる玄から生まれる。
これがこの世のすべてのものが生まれる仕組みだ。

「玄」をすべてのものが生まれる根源的な「何か」としましょう。
では、その「玄」は何から生まれたのか?という問いが生まれます。
が、これは無限に続いて行ってしまいます。

極大も極小も、どこまでも行くと最後は無限です。
物質が何で構成されているかを考えた時。

例えば、宇宙。
宇宙が存在するには、宇宙の器になる「何か」がないと存在できない。
では、その「何か」が存在するためには、「何か」の土台となる「さらなる何か」がないとダメですね。

これは、無限になってしまって、もう理解や言葉を超えています。
確かに、何かが存在しているはずなんだけど、私たちはそれを表現できません。

小さいほうに進んでも同じです。

物質は分子や原子の集まり。
その原子は、原子核と電子からできていて、
その原子核は、陽子と中性子からできている。
では、では、・・・。

これも無限に続きます。量子力学の話になっていきます。

結局、大きいほうも、小さいほうも、無限。
しかし、元になる何かが存在していることだけは間違いありません。
でないと、この世界もないことになってしまう。

私たちは赤ちゃんのときに、この世の本質を知っていたのかもしれませんね。
ちなみに、老子の中には、「赤ちゃん」を例に挙げた話も出てきます。
「無垢」「無為」の例として適切なんですね。

赤ちゃんも元をたどれば、精子と卵子。
どちらも、さらに元をたどっていけば、無限です。
そして、命が終わるときも、空(無)に戻るわけです。

この世界は、そうやって存在しているということを老子は言いたかったのではないかと思います。
その仕組み?、法則?、力?を「道(タオ)」としたんですね。

あとがき

いかがでしょうか?

これはあくまでも現時点での私の解釈です。
いつか変わるかもしれません。
全く違うという人もいれば、部分的には合っているという人もいるでしょう。

しかし、老子いわく、意識して解釈しようする時点で既に、それは本質を表していません。
やっぱり、なんかズルい。

とくに第1章は、抽象的ですごくわかりづらい。
分かったとしても、「だから、なに?」という感じかもしれません。
でも、シンプルにそういうことなんだと思います。

名前や肩書などにとらわれず、
何かを手に入れなくてはいけないとか、
何かをしなくてはいけないなどではなく、
ただ、あるがままでいいということなんですね。

第1章は、他の章にも目を通してから、もう一度読み返すと、理解が深まると感じます。

今回もダラダラと解説しましたが前回と同じで、老子いわく、この説明自体が野暮ってやつです。。

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