こんにちは! 超せまっ!ワンルーム2人暮らしのまさすみ(夫)です。

前回は第1章を紹介しました。↓
第1章は道(タオ)についての内容でしたが、抽象的で理解しづらい。

シリーズ老子1章:本当のミニマリストは自分をミニマリストと言わない

2章も抽象的ではありますが、1章に比べて理解しやすいです。

私たちが「美」を意識するとき、「醜」との比較が生じます。
「醜いもの」に目をつぶることになります。

たとえば、「美しい容姿になりたい」と思っている人は、そうではない今の状態と比較しています。

一方、壮大な自然を無心で眺めた時の感動は、確かに「美しい」のですが「醜い」は存在していません。
このとき、全てひっくるめての言葉で表現できない本当の「美しさ」を感じているからだと思います。

着飾ってはいないけど、決してみすぼらしいわけでもない、そんな自然体の美しさを持っている人にどこか惹かれるのも、こういうことなんだと思います。

第2章は、タオを生きる人を通して、まさに自然のように自然体で生きる、ということを教えてくれます。

それでは、ご覧ください。

老子 第2章の原文

天下皆知美之為美。斯悪已。
皆知善之為善。斯不善已。
故有無相生、難易相成、長短相較、高下相傾、音声相和、前後相随。
是以聖人処無為之事、行不言之教。
万物作焉而不辞、生而不有、為而不恃、功成而弗居。
夫唯弗居、是以不去。

2章の訳・私の解釈

世の中の人々は美しいものを「美」と感じる。それは「醜いもの」を分離して生み出すことになる。
皆、善いことを「善」と感じる。それは「悪」を分離して生み出していることになる。

有ると無い、難しいと易しい、長いと短い、高いと低い、音と声、前と後ろ、これらは相互に成り立っている。
このことを知るタオを生きる人は、区別せずにあるがままに処し、言わずして教える。

この世の様や出来事をいちいち論ぜず、生み出しても所有せず、何かをしても見返りを求めず、功を成しても居座らない。
それは、ただ居座らないだけで、どこかに姿を隠すということもない。

解説・私の思うこと

天下皆知美之為美。斯悪已。
皆知善之為善。斯不善已。

訳:世の中の人々は美しいものを「美」と感じる。それは「醜いもの」を分離して生み出すことになる。
皆、善いことを「善」と感じる。それは「悪」を分離して生み出していることになる。

1章でも出てきた「区別」の話ですね。

私たちは、美を良しとする価値観があります。
しかし、「美」は「醜」という、もう一つの解釈でお互いに成り立っています。
「悪」があるから「正義」も成り立ちます。

「故有無相生、難易相成、長短相較、高下相傾、音声相和、前後相随。」

訳:有ると無い、難しいと易しい、長いと短い、高いと低い、音と声、前と後ろ、これらは相互に成り立っている。

私たちの目線は、いつも何かと何かを比べながら生きています。
時に、その比較が不幸を生むことになります。

例えば、先ほどの「美」。
私達の価値観では「美」はプラスの物として解釈しますが、振り子と同じで「美」に執着しすぎると、「醜」に対しての反動も大きくなります。

例えば、美しい服に執着しすぎると、そうではない服に満足できなくなります。
若かさや美貌に執着しすぎる人は、歳をとってそうではなくなった時に、他の人以上の落差を感じます。

「美」に執着が強すぎると、「醜」に嫌悪感を抱いたり、攻撃的になる可能性もあります。

社会や自分が作った解釈や価値観がストレスや嫉妬の原因になることもあるのです。
でも、老子の言う「妙」の世界、区別をしない世界では、すべてがあるがままにただ存在しているだけです。

しかし、私達は解釈をしないということが通常できません。
なので、片方に執着しないで、両方の存在を認めることを忘れないことが大事なんですね。

「是以聖人処無為之事、行不言之教。」

訳:このことを知るタオを生きる人は、区別せずにあるがままに処し、言わずして教える。

タオを知る人は、物事に対しての区別がないので、あるがままに受け止めます。
常にニュートラルな状態で、事をなします。

「区別なし」の状態を言葉で表現することができないので、タオを生きる人は言葉でなく、自身の佇まいでタオを表現しているのです。

「万物作焉而不辞、生而不有、為而不恃、功成而弗居。」

訳:この世の様や出来事をいちいち論ぜず、生み出しても所有せず、何かをしても見返りを求めず、功を成しても居座らない。

タオを生きる人は、まさに宇宙や自然そのものを体現していると言えます。
自然は何も説明しませんし、自分の物だとも言わず、何も見返りを求めず、誇ることもなく、ただただ繰り返します。

自分と世界の区別もないので、自分自身が世界、自然に溶け込んでいます。
「自分の物と言わない」のも、言わないようにしているのではなく、そもそも、そういう意識すらないということです。
それが、老子の言う「無為」でもあります。

逆に私たちは、知ったかぶって説明したり(まさに今、私がやっていること。。)、
私が作ったのだから、これは私の物だと言ったり、
何かをすれば、報酬や名声を求め、
成功をすると、いつまでもその余韻に留まります。

まさに老子が言うことの逆をしてしまいがちです。

「夫唯弗居、是以不去。」

訳:それは、ただ居座らないだけで、どこかに姿を隠すということもない。

自然と同じで「わたし、わたし」と主張をせず、ただ存在しているのですね。

老子研究者の訳では「世のためのことをしても主張しないから、人々から忘れられることもない」というニュアンスの方もいます。

私も最初、そう考えていました。
意訳なので結果的には同じ要素を含んでいると思いますが、「ただ存在している」のほうがタオの性質にあっているのではないかと感じるようになりました。

あとがき

いかがでしょうか?

2章は、1章の「あるがままの世界」と「解釈を通してみる世界」の話の続きですね。

本来は区別や分離のない、ただあるがままに存在している世界を、私たちが解釈を通して、「〇〇に価値がある」「〇〇が良い」とします。

しかし、現実を生きていくうえで解釈をしないわけにはいきません。
だから、片方だけを良しとせず、もう一方の存在も認めることで、ニュートラルな生き方ができます。

自分が短所と思っていることも、見方を変えれば、長所になることだってある。
そのように物事をとらえることが、執着を緩めることなるかもしれませんね。

比較をせず、自分らしく生きること、それが心豊かに生きる秘訣の一つなんですね。
なんてシンプルなのでしょう。

ご覧頂きまして、ありがとうございました!

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