こんにちは! 超せまっ!ワンルーム2人暮らしのまさすみ(夫)です。

前回は老子第14章を紹介しました。↓

シリーズ老子14章:薄明かりのぼんやりとした切なさの漂う状態

今回は、第15章。

この章では老子がタオを会得した昔の賢人について語っています。
タオを会得した人はどういう人なのかという視点でタオの説明をしています。

それでは、ご覧ください。

老子 第15章の原文

古之善爲士者、微妙玄通、深不可識。
夫唯不可識、故強爲之容。
豫兮若冬涉川、猶兮若畏四鄰、儼兮其若客、
渙兮若冰之將釋、敦兮其若樸、曠兮其若谷、混兮其若濁。
孰能濁以靜之徐清。孰能安以動之徐生。
保此道者、不欲盈。
夫唯不盈、故能蔽而不新成。

15章の訳・私の解釈

はるか昔の賢人は精妙なタオに通じ、その奥深さは測りしれない。
それは理解できるものではないが、あえて賢人のあり方を通して表現してみよう。

その人は、冬の川を渡るように慎重で、
四方を警戒するかのように用心深く、
佇まいは客人のように威儀を正している。

氷が溶ける時のように角がなく柔和で、
切り出したままの原木のように純朴、
深い谷のような広大な心を持ち、
濁れる大きな河のように混沌としている。

濁りがゆっくりと清らかになるまで静かに待つことが誰にできようか。
欲を持たず安らかな気持ちで生み出すことが誰にできようか。

タオを知る賢人は過剰に求めない。
過剰にしないからこそ、古びても新しく成さない。

解説・私の思うこと

「古之善爲士者、微妙玄通、深不可識。
夫唯不可識、故強爲之容。」

訳:はるか昔の賢人は精妙なタオに通じ、その奥深さは測りしれない。
それは理解できるものではないが、あえて賢人のあり方を通して表現してみよう。

これまでの章でも言葉では表現できないタオの本質について老子は語ってきました。
タオを会得したとされる賢人はまさにタオの体現者。
この人の佇まいや、あり方自体がタオということですね。

ところで2,500年前に生きていた(とされる)老子に「はるか昔」と言わせる時代は、日本の年表でいえば縄文時代あたりでしょうか。にわかに信じがたい。

この頃の人類は自然と一体になって暮らしていたはずです。
現代以上に自然の脅威と、自然の恵みへの感謝があったでしょう。

「豫兮若冬涉川、猶兮若畏四鄰、儼兮其若客、
渙兮若冰之將釋、敦兮其若樸、曠兮其若谷、混兮其若濁。」

訳:その人は、冬の川を渡るように慎重で、
四方を警戒するかのように用心深く、
佇まいは客人のように威儀を正している。

氷が溶ける時のように角がなく柔和で、
切り出したままの原木のように純朴、
深い谷のような広大な心を持ち、
濁れる大きな河のように混沌としている。

老子がよく使う表現のまさに「聖人」のような人物像です。

この15章は解釈が難しい個所がいくつかあります。
そのうちの一つが次の句です。
「混兮其若濁」=「濁れる大きな河のように混沌としている。」の部分の解釈が一つに絞れません。

原文を直訳すると、「濁った河(濁った水・濁り)のごとく、混ざっている」となります。
直前までの部分では人柄としてプラスの人物像なので、この部分もおそらく良い要素の人物像を言っているように推測できます。

次のような解釈の可能性があると思います。

・汚れた環境に適応している。
・混乱の世の中でも、他の人々と同じように暮らしている。
・泥水の中でも平気でいる。
・賢人の様(さま)にはいろいろな面があって測りしれない。

「濁」を字づら通り、濁った河、濁りや泥水のような意味で使っているのか、
それとも、けがれや人の醜さや悪の部分を例えているのかが判別できません。

「孰能濁以靜之徐清。孰能安以動之徐生。」

訳:濁りがゆっくりと清らかになるまで静かに待つことが誰にできようか。
欲を持たず安らかな気持ちで生み出すことが誰にできようか。

濁った水を澄ませる一番良い方法は放置することです。
「早くきれいになれ」と突き回していたら、いつまで経っても水が澄むことはありません。
ましてや大きな河であれば老子の時代には人間の力ではどうすることもできません。

賢人は冷静さや忍耐も持ち合わせていたのでしょう。

もう一つの視点として、この句の「濁」には「世の混乱」「争い」なども当てはまると思います。

戦争や争いはお互いにやり合っている状態では終わることがありません。
人間関係でも良くしようとの想いだったとしても、かき回すことでかえってこじれる場合もあります。
一旦、冷静になって気持ちや状態が静まるのを待つのが最善なのかもしれません。

賢人の存在自体が争いを鎮めるような影響を持っているとも考えられます。
鎮めるために何かをするわけでもなく、賢人がいるだけで自然と鎮まっていくような影響力です。

次に「孰能安以動之徐生」=「欲を持たず安らかな気持ちで生み出すことが誰にできようか」の部分。

これも「無為」のことを言っています。
意図もなく世界がただ存在していて、意図もなく季節は回ります。
その存在や現象を在らしめる何かしらの力(タオ)は目的を持って働いていません。

それと同じでタオを生きる賢人は、いつも安定した状態で暮らしているということですね。
賢人と言っても人ですから、生きていくためにはご飯も食べますし、時には取引も必要だったはずです。

その時も必要以上にお金を稼ごうなどの意図もなく、ただやっていたことが誰かの役に立ち、そこから結果的に自分も利益を得て暮らしていたのだと思います。

「保此道者、不欲盈。
夫唯不盈、故能蔽而不新成。」

訳:タオを知る賢人は過剰に求めない。
過剰にしないからこそ、古びても新しく成さない。

賢人は「足るを知る」ということを知っています。
別の章でも「盃をひたひたまで一杯にすること」の虚しさを老子は説いています。
欲張ってひたひたにすると、こぼれてしまったり、こぼれないように常に気苦労をすることになります。

賢人はほどほどを知っているので気苦労もありませんし、欠如感や不足感もないのです。
この状態こそが実は人間にとって一番幸せなことなのですね。

この章のもう一つの理解が難しい個所が「故能蔽而不新成」の部分です。
いくつかの文献や翻訳者の書籍を見ると2通りの解釈があり、それぞれ真逆を言っています。

一方は、「故能蔽而不新成」=「古びても新しくしない」
一方は、「故能蔽而新成」=「古びたら新しくすることができる」

「不」は否定を意味しているので2つの原文は真逆なのです。

私はどちらが正しいのかわかりませんが章全体を見ていくと、最後の部分はこだわりや執着がない賢人のあり方を言っています。
そのことから私は前者の「故能蔽而不新成」=「古びても新しくしない」を採用しました。

あとがき

いかがでしょうか?

この章の賢人のような人が周りにいるだけで、きっと周りの人にも影響を与えると思います。
例えば、争いが起きて揉めた時になぜか争いがおさまったり、賢人の謙虚さや執着の無さを垣間見ることで欲望のブレーキをかけるきっかけになるお手本のような人です。

賢人はきっと「執着がないほうがいいよ」とも言いません。
それを言ったら無為ではなくなってしまうからですね。
ただただ、その人の存在や生き方が周りに影響を与えているのです。

意図をせず、無為の状態でやることは容易ではありません。
このあり方だけでも到底測りしれません。

ご覧頂きまして、ありがとうございました!

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